Plusone649
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われていたユダヤ人難民は一時的に中立国となったリトアニアに逃げ込むことに成功しました。しかし、その後リトアニアもソ連に併合されることが決まり、さらに窮地に立たされます。ナチス・ドイツ軍による侵攻のためヨーロッパへの逃げ道を失ったユダヤ人難民には、シベリア鉄道を経由して日本を通過し、第三国に出国するルートしか残されていませんでした。日本の領事代理・杉原千畝のもとに、日本通過ビザを求めるユダヤ人難民が殺到しました。杉原は、外務省にビザの発給が可能かどうかの判断を仰ぐべく打電しましたが、「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない」との訓令が出されました。外務省の命令と目の前の難民たちの命の板挟みとなり二日二晩悩んだ杉原は、目の前で困っている人を助けないわけにはいかない、とビザの発給を決断します。領事館が閉鎖されるまでのわずか数週間の間に、毎日のように手書きでビザを書き続け、およそ2139枚のビザを発給し、これにより数千人ものユダヤ人の命が救われました。彼の行動は一個人の決断でしたが、その精神は、今日の国際社会における人道原則の礎として生き続けているのではないでしょうか。戦後、杉原は外務省を離れ、経済的に逼迫していた時期もあったようです。さまざまな仕事を経て、最終的には貿易会社のモスクワ事務所・支店の代表を務め、仕事人生を終えました。杉原の功績が広く知られるようになったのは、1968年に当時カウナスで杉原からビザを受け取った人物の1人が彼を探し出したことがきっかけでした。1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞。2000年な杉原の名誉回復が行われました。杉原はなぜそのような決断ができたのでしょうか。ビザを受け取った生存者の1人は、「杉原の決断は日常の小さな選択の積み重ねの結果であり、普段から正しいと思うことを選び続けた結果、大きな決断が必要な場面で正しい選択ができたのではないか」と述べているそうです。八百津町にある杉原千畝記念館では、ホロコースト(ナチス・ドイツとその同盟国および協力者による、ヨーロッパのユダヤ人約600万人に対する国ぐるみの組織的な迫害および虐殺)の背景や、ビザを受け取って生き延びたユダヤ人のその後の足跡を紹介する一方で、不幸にも虐殺された人たちが多くいることにも触れています。訪れた人たちにとっては、分断と争いの歴史の根深さに触れながら、改めて平和の尊さを考えるきっかけにもなっています。記念館の一番奥には、杉原千畝がビザを書いたリトアニアのカウナス市に今も現存する旧日本領事館執務室を再現した「決断の部屋」が用意されています。同じ状況に直面したとき、杉原と同じように勇気ある決断ができるか考えさせられます。そして、日常から「小さな、正しい決断」をし続けられることの大切さを教えてくれるような気がします。自分は同じような決断ができるか「日常の小さな選択の積み重ねの結果」 Columnリトアニア・カウナス領事館前でビザ発給を訴えるユダヤ人たち©NPO 杉原千畝命のビザイスラエル・バルハフティック宗教大臣から勲章を授与される©NPO 杉原千畝命のビザ10月10日、日本国政府による公式27

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